師範インタビュー
私の極真履歴書
関西総本部師範・岡田幸雄。
長かった、極真への道
Q.まずは師範と空手との出会いから聞かせてください
「私はもともと栃木県の生まれなんですが、小学生の頃、地元で行われた空手の演武(流派は不明)に興味を覚えまして、それが空手という武道を意識するようになったきっかけですね。その後、就職で大阪に移ったのですが、そうですねぇ、今から40年くらい前ですかねぇ、ある映画館で、「猛牛と闘う空手」というドキュメンタリー・フィルムを見たんですよ。それが今、思い出せば大山総裁だったんですね。当時は極真空手という存在は地方ではあまり知られていなかったんですけど、この映画で見た大山総裁の姿は圧倒的なインパクトがありました。ただただ『凄ぇ!』の一言でしたねぇ。その衝撃がその後もずっと脳裏にこびりついて離れませんでした」
Q.それがきっかけで極真に入門されたのですか
「結果的にはそうですね。しかし当時大阪には極真の道場がなかったんですよ。それで最初は糸東流の道場に通っていたんです。でも若くて血気盛んだったから、やはり寸止め空手は物足りないわけですよね。で、実際に相手を殴ることのできるボクシングに転向したんです。自分で言うのもなんですが結構センスがあったので(笑)、プロになろうと思っていたんです。しかしスパーリングのときに相手にサミングを受けまして、右目がダメになっちゃたんです。今でもほとんど見えません」
Q.格闘家としては致命的ですね
「でもやっぱり格闘技がすきだったんでしょうねぇ。ボクシングを諦めたあと、目のハンディがあってもできるものがないかと考えたとき、出会ったのが少林寺(不動禅少林寺流拳法)だったんです。大阪は少林寺が盛んでしたから。その後、しばらく少林寺に籍を置いていまして、最終的には6段までいかせてもらいました。まぁ一生、少林寺かなぁと思ってもいたんですが、そんなとき大阪の福島にあの“牛殺し大山”の極真の道場ができたというのを聞いたんです。 これはもう入るしかない!と(笑)」 Q.極真までたどり着くのにかなり回り道をされました 「そうですね。私が入門したのが昭和54年(1979)39歳のときでしたからね。もう選手を目指すにも峠を越えていますよね(笑)。でもあの映画で見た大山総裁の下で空手ができるということで、感慨もひとしおでしたね」
大山総裁との出会い
Q.初めて大山総裁を見たときの印象を聞かせてください
「当時、大阪道場は東京総本部の直轄道場ということで、審査会のときには大山総裁もわざわざ東京からいらっしゃっていたんです。そこで初めて総裁とお会いしたんですが、いやぁ、もうただただ『でかいオッサンやなぁ』ということで(笑)、圧倒されましたね。その頃、総裁もまだ若くて50歳台でしたが、存在自体に威圧感があるというか、オーラがあるというか」
Q.現在、大山総裁を知らない世代にとっては羨ましい話ですね
「そうですね。総裁の前で審査を受けて直接 指導を受けられるんですからね。そうそう審査で思い出しましたが、ひとつ面白い話がありますよ。私なんかは組手のとき、最初、ヒットアンドアウェーで、 打っては逃げ、打っては逃げしていたんです。総裁には印象悪かったと思いますよ(笑)。でも最後、苦し紛れに出した飛び後ろ廻し蹴りが相手の顔面に見事に 入ってKOしたんです。そのとき総裁から『岡田クン、キミはスジがいいねぇ』と言われて、『ああそうなんだ。俺はスジがいいんだ』って(笑)。豚もおだて りゃ何とかで、総裁はそうやって人を誉めるのがうまかったですね。総裁からもらったそんな一言が嬉しくて、その後、何十年、極真空手をやっているようなも のですから」
Q.その後、大山総裁は何かと岡田師範に目をかけてくれたそうですね
「普通の人にとっては、あまりにも総裁が大きい存在なので、恐れ多くて近寄れなかったでしょうし、ましてや声を掛けるなんてできなかったんですよ。でも私は良く言えば物怖じしない性格、悪く言えばバカですから(笑)、黒帯を取る前から、総裁とも普通に話をしていたんですよ。世間話もしますし、道場の運営に関しても思ったことはズバズバ言っていたんです。それが総裁にとっては結構、面白かったんでしょうね。あるとき、私がまだ色帯の頃なんですけど、総裁の命を受け、東京の総本部から津浦伸彦氏(大山総裁の長女・故留壹琴(るいこ)氏の夫、総裁から見れば娘婿に当たる)が大阪の指導員としてやってきたんです。で、この若い津浦氏を誰かサポートする人間が必要だということになり、『じゃぁ、年長者のキミがやりなさい』ということで、私が大阪道場の相談役に任命されたんです。まだ色帯のときですよ。もう押忍としか言いようがないですよね(笑)」
Q.それだけ大山総裁に信頼されていたんですね
「総裁には生前、いろいろと可愛がってもらいました。厳しさの中にも、人を大きく包み込む愛がありました。しかしその一方で、あれだけの功績をなし、空手家にとっては神様みたいな存在だった総裁でも、結構抜けているというか(笑)、人間臭いところがいっぱいあったんですよ」
Q.え、そうなんですか!
「例えば、ある日いきなり総裁から、直接家に電話がかかってくるんです。『キミィ、岡田クン、今から大至急相談したいことがあるんだ』とくるわけです。こっちは仕事で忙しいんですけど、総裁命令は絶対ですからね。急いで新幹線の切符を買って東京まではせ参じるわけです」
Q.その日のうちにですか?
「もちろん。あの大山倍達から直接電話がかかってくるんですよ。これはもう天下の一大事じゃないですか。こうして息せき切って池袋の総本部までたどり着き、ハァハァ言いながら総裁室に行くと、果たして総裁が笑顔で迎えてくれるんです。『おお、岡田クンか、大阪からよくきたねぇ』って」
Q.総裁も嬉しいんでしょうねぇ
「で、ここからがすごいんですよ。『おお、岡田クンよくきたねぇ・・・。それで今日は何の用事かね?』って(大笑)。
Q.漫才ならここでオイオイとツッコミが入るところですね
「総裁は思いついたらすぐ実行する方で、たぶん電話を掛けてきたときも、私に何かの相談があったんでしょうね。でも私が東京にたどり着く前に解決したんでしょう、電話をしたことをすっかり忘れていたんです。で、私は何しにきたと尋ねられて、『押忍、大山先生に呼ばれてきました』と答えると、さすがに総裁も思い出してバツが悪かったんでしょう、そばにあった木箱を出して『ああ、そうだったね岡田クン、思い出したよ。実はねぇ・・・、いい柿が手に入ったんだ。これをキミにも食べさせてあげようと思ってねぇ』だって(笑)」
Q.あははは(大笑)
「それで総裁といっしょに柿を食べて帰りました(笑)」
Q.(大笑)お腹が痛い!
「茶目っ気たっぷりですよね。そんな総裁の人間臭いところをいっぱい見てきたからこそ、私自身、大山先生についてこれたわけですし、今まで極真空手を続けることができたと思います」
極真の未来像
Q.そんな極真空手も大山道場時代から数えると、もう半世紀もの歴史をもつ団体となりました
「現在、残念 ながら極真はいくつかの派閥に分かれてしまいました。しかし間違いなく言えることは『総裁の作った極真空手はひとつ』であるということです。私はこの総裁 及び諸先輩方が血のにじむような思いで作り上げたこの“極真”という金看板をこれからも守りつづけてゆく覚悟ですし、今以上に発展させてゆきたいと思って います」
Q.関西総本部を引き継いだのもそういう覚悟があったからですね
「1994(平成6)年、私が前任者の津浦師範からこの関西総本部 を引き継いだわけですけど、実はこのバトンタッチ、大山総裁のリクエストでもあったんですよ。 総裁が亡くなる前の1988(昭和63)年、私と津浦師範と名古屋の長谷川師範の前で、大山総裁が『私も年だからそろそろ津浦クンを東京の総本部へ返してもらえないだろうか』と相談されたんですね。元々、津浦さんは大山総裁の娘婿ですし、大阪へは当初5年の約束で来てもらっていましたから総裁の言うことはもっともなんですよ。で、津浦さんの代わりに誰が後を引き継ぐかという話になりまして、『岡田クン、キミがやりたまえ』となったんです。でも当時は私自身仕事が忙しくて、総裁の意に叶うようにはいかなかったんですが、総裁が亡くなったあと津浦さんと話をしまして、その総裁の遺言だと思ってこの職を引き受けたという次第です」
Q.関西総本部の未来像みたいなものはありますか
「大山総裁没後の騒動にともない、私どもは旧『関西本部』から『関西総本部』と名称を変え、独自の活動を行ってきました。基本的には何派にも属さない中立の立場をとってきたわけです。いわば空手に政治を持ち込まないというスタンスですね。この姿勢はこれからも変わることはないでしょう。現在、その志を同じくする支部、道場のネットワークとして『全日本極真連合会』という組織を作っています。この考えに賛同する方々は全国にたくさんおり、これからも拡大傾向にあります。毎年、我々が大阪で主催する『全日本ウエイト制大会』を始め、『全日本大会』、『世界大会』などの競技面においても、この『極真連合』の主管のもと行われるようになり、選手たちに対しても安定した活躍の場を与えられるようになりました。そういう意味で、この環境を更に進化したものへと作り上げてゆくことが我々に課せられた使命でしょうね。
現在、関西総本部には内弟子が二人いるんですよ。将来を空手に捧げようという若者たちなんですが、彼らが一人前に空手でメシを食っていけるような土台作り、それをやるのも私たち年寄りの仕事(笑)。彼らが次の世代として、今以上に極真を大きくしていってくれることこそ、ある意味、この関西総本部の未来像なのではないでしょうか」
Q.本日はどうもありがとうございました
「ありがとうございました」